2004年04月02日

どろどろのどろ--黒田喜夫の転換の瞬間(後編)

 黒田喜夫が、『現代詩』や『現代詩の会』に所属し、詩作、評論、編集のすべてを一手に引き受け活動していた頃、彼は詩作上で一つの転機にぶつかったという。以下の黒田喜夫の様子は、詩人・菅原克己の回想に寄るところが大きい。

 ――ある日、黒田喜夫が事務所を歩きながら、何やらもそもそ云っている。よく聞くと、どうやら「どろどろのどろ、どろどろのどろ」と呟いているらしい。何がどろどろのどろなんだ、と聞くと、彼はニヤリとして、「どろどろのどろが、どうしても出せないんだ」と云う。
 
(中略)

 彼はこの頃、詩作上の一つの転機にぶつかっていたようだ。目次の「ドブザンスキー、長谷川四郎訳」というのを、「ザブトンスキー」とやってしまって、ぼくらをあっと云わせたのもこの頃だった。
 
 これらの様子がいったいどうして詩作上の転機なのか、それが気になるところだが、転機というものは、一度後ろに立ち返るものだとおもえば、決して理解し難いものではないはずだ。一転突破全面展開は、きっとこういうことなのだろう。黒田氏の転機の表層は以下のようにまだ続く。

 ――病身の彼は、いつもぼくらが行く飲み屋には来なかった。彼は特別、「栄養食」に飢えていたようである。喫茶店でみんながコーヒーを頼んでいるときでも、彼だけはハムのようなものをはさんだまるいパンを食べていた。街を歩いていても、食堂の前までくると、知らず知らずのうちに首をのばして、ウィンドケースをのぞきこむようなところがあった・・・・・・・。

 この後、黒田は詩の創作と並行して、雑誌『映画批評』の再建に心身をかたむけるが、資金が続かず一年足らずで廃刊。と同時に、健康状態の最悪化。20代の頃、肺結核でやった左肺合成樹脂充填術という、いまとなっては乱暴ともいえる手術における古傷が痛み出したのだ。しかし、この間に多くの作品を書き、また読んだ。詩集『不安と遊撃』のほとんどはその状態の中で書かれている。『不安と遊撃』のH氏賞授賞式には、妻の三千代が代理で出席。入退院は亡くなるまで続いた。しかし、創作活動は可能な限り精力的に続け、晩年は、詩よりも時評を多く発表、それらは全て鮮烈な衝撃を文壇に与えたのだ(文壇というものがあるとして)。
 「どろどろのどろ」は吐き出せたのか、それは分からないが、黒田喜夫は、どろの中にまじった砂金にも紛う言の葉を吐き出せたことは確かだ。(了)

 (参考)現代詩手帖 1977/2月号 黒田喜夫特集
     思潮社刊 黒田喜夫詩集
posted by ひろか at 02:09| Comment(0) | TrackBack(0) | おしゃべり literature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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