2004年04月02日

どろどろのどろ--黒田喜夫の転換の瞬間(前編)

 詩人・黒田喜夫(くろだ きお 1926〜1984)が雑誌『現代詩』の編集をしていたのは、のちに氏の最高傑作、更にH氏賞(詩壇における芥川賞)を受賞することになる『不安と遊撃』を出版する前であるから、彼が30代に突入したばかりの頃だ。その直前、病み上がりで仕事もない黒田は友人・瀬木慎一の勧めで、岡本太郎や芥川比呂志のいた現代芸術研究所の事務職員をしていた。しかし、東北育ちで鈍重な動きの黒田は、機敏な岡本には好かれず、いつしかそこから離群し、次に向かったのが『現代詩』だった。『現代詩』では、大井川藤光、且原純夫から関根弘、そしてのち生涯の友となる長谷川龍生らが活躍していた。多くの芸術家・文学指導者の仕事を間近にしながら、従来の日本の革命芸術は、このままでは救い難く、ますます戦後派による批判が必要だと察した黒田は、「或る転換」「空想のゲリラ」「燃えるキリン」など、現代詩の頂点に置かれるともいわれる傑作を、この時期に次々と書き上げた。農民出の小学校卒という自らのルーツにより、伝統とアバンギャルドの関係について理論を求めるようになったり、前衛的な絵画や映画を積極的にみるようになったのもこの頃であった。
 やがて、長谷川龍生が大阪から上京すると、黒田と長谷川の付き合いは深くなっていった。長谷川は黒田の健康を、創作を、私生活を、あししげく世話していた。黒田もそれに応えるように、思想的再生がされつつあることを察し、スターリン批判やハンガリヤ事件などを経て自己の卑小さを暴き出した「ハンガリヤの笑い」などを詩作、また生涯献身的に黒田を支えた池田三千代との結婚も経、充実した生活を送った。
 その頃、それまであった戦後詩人らを代表する文学運動を統制しようとする公式主義者が『現代詩』にも目をつけ始めていた。すると黒田は『現代詩』を脱退。鮎川信夫、大岡信、菅原克己、関根弘、長谷川龍生、吉本隆明らと新しく『現代詩の会』を立ち上げ、精鋭で前衛的な文学・芸術運動の創出を目指した。この時期に創作されたのが「アパートの四畳半でおふくろが変なことを始めた」で始まる彼の有名な詩「毒虫飼育」である。衆知の通り、どんなに黒田の作品を削ぎ落としたとしてもこれだけは残る、秀逸の作品だ。
 そして今回話したいのは、この時期の、黒田の詩作上の転機における表層的な問題についてなのだ。(つづく)
posted by ひろか at 01:15| Comment(2) | TrackBack(1) | おしゃべり literature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
黒田喜夫の詩が大好きです。
高校生の頃、自転車していたのだけれども、暗記したハンガリアの笑いや、除名を口ずさみながら学校に通いました。今でも月に何度かは思潮社の黒田喜夫全詩を開いて読みます。
 「不安と遊撃」の頃が全盛期と思いますが、最後まで駄作のない詩人というのも希有な存在ですね。

読んでいない方はぜひ一読を。思潮社の現代詩文庫に入っています。
Posted by 伝次郎 at 2004年10月07日 22:52
伝次郎さん、はじめまして。コメントをどうもありがとうございます。

「どろどろのどろ」は、つたない文章で大変恥ずかしいのですが、黒田氏の詩をより多くの方に読んでもらいたく、書きました。
わたしは詩を書いているのですが、書くときにはいつも氏をどこかに思います。とても気をゆるめることはできません。
わたしも黒田氏の詩集を月に何度かは開きます。詩に人生を「賭け」たひとを思うと、どうしてか胸が苦しくなるのですが。
Posted by Tarachka at 2004年10月09日 03:42
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中学高校時代に呼んだ詩集から??黒田喜夫詩集
Excerpt: 野田の実家にあって、早く整理しなくてはいけない段ボール箱数個。父が臥せ、祖母も寝ていたベッドの上に置きっぱなしである。 小学校時代の絵日記、日記、読書記録。 そして、『ユリイカ』のバックナンバー。..
Weblog: 【こぐれ日乗】消えつつ残りつつ by小暮宣雄
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